大判例

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東京高等裁判所 昭和47年(う)1472号 判決

控訴人 被告人

被告人 佐藤六夫

弁護人 戸田等

検察官 北村久彌

主文

原判決中被告人に関する部分を破棄する。

被告人は、無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人戸田等作成の控訴趣意書(ただし、七を除く)記載のとおりであるから、これを引用する。これに対し、当裁判所は、次のとおり判断する。

所論は、原判決が被告人に過失を認めたのは、事実を誤認したものであり、右誤認は、判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決は、破棄を免れない、というのである。

そこで、検討すると、原判決挙示の証拠を総合すると、被告人は、漁船第一五喜一丸(五三・三トン)の船長としてこれに乗り組んでいたこと、同船は、昭和四四年八月二九日釜石港東北約一二〇キロメートルの海上でまぐろ延縄漁獲の操業中、延縄がスクリユーにからみ、そのシヤフトに巻きついたので、これを取り除くため、翌三〇日釜石港に入港して釜石市東前町二〇番地三二号先岸壁に、船尾を岸壁に向けて碇泊したが、同日午後四時二五分ころ、さきに機関長大滝清八が依頼しておいた潜水夫佐々木賢二の潜水作業船が到着して、本件漁船の右側に位置し、そこから綱夫がエアホースを操作し、右潜水夫が潜水して右の縄の取り除き作業を行なつたこと、右作業に先立ち、被告人は、右佐々木の依頼により、作業がし易いように、操機長釜道勝典に命じてギヤを後退の状態にさせてシヤフトを出したこと、そして、被告人は、右作業中、他の乗組員らとともに本件漁船の右舷後部において、他の船舶が本件漁船の右側近くに入港して来ることなどにより右作業が妨げられたり、潜水夫に危害を及ぼしたりすることのないよう、付近の監視にあたりながら、この作業を見守つていたこと、一方機関長大滝清八は、同日午後二時ころ上陸し、飲食店で酒、ラーメンを飲食し、同日午後四時四〇分ころ帰船したのであるが、被告人から集合時刻が午後四時半である旨告げられていたのに、当時時計を持つていなかつたため集合時刻に三〇分ばかりも遅れたものと思い込み、当時本件漁船が岸壁から九メートルばかり離れていて渡り板もなかつたところから、たまたまそのとき本件漁船の左側に入港して来て着岸したいか釣り船をつたわつて本件漁船の左舷から帰船し、船長はもとより他の乗組員にも帰船の知らせをしないので、急いで機関室に入り、当時まだ縄の取り除き作業が行なわれていることにも、ギヤが後退の状態になつていることにも気付かず、出港準備のためエンジンを始動させたこと、そのため、スクリユーが回転して、おりからその近くで潜水して作業中の前記佐々木賢二が左大腿、両側下腿、左前腕開放性骨折および左臀部から同大腿部にかけた挫創の傷害を負い、その結果同日午後五時二〇分ころ、同市大町三丁目八番三号釜石市民病院において失血死するに至つたことが認められる。

そして、原判決は、船長である被告人としては、右機関長大滝その他上陸した乗組員に対し、集合時刻を午後四時(原判決挙示の証拠によれば、前記のとおり午後四時半と認めるのが相当である。)である旨告げており、またギヤを後退の状態にしてあつたのであるから、前記作業が行なわれているころ、機関長大滝が帰船して被告人の目の届かない機関室において潜水作業中であることに気付かず、またギヤの状態が前記のようになつていることに気付かず、出航準備のためエンジンを始動させ、右潜水夫に危害を与えることを慮つて、人を配して機関室への立入りを禁止するとか機関長の気付き易いところに貼紙をして機関長の不注意なエンジン始動操作を防止すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠つたため本件事故が発生した旨判示している。

たしかに、被告人が原判示のような注意をしていれば、本件事故は、発生しなかつたはずであるが、問題は、被告人に右のような注意義務があるか否かであるので、この点について考えてみる。

原判決挙示の証拠によれば、縄の取り除き作業をその業者に直接依頼したのは機関長大滝清八であり、その結果潜水夫が同日午後四時半ころまでに来ることになり、右大滝は、同日午後二時ころ上陸した際、道路上で被告人に会い、その旨を告げたことが認められるのであるから、被告人は、右大滝が、同日午後四時半ころから縄の取り除き作業が行なわれることを充分承知のうえで行動するであろうと考えたとしても、これは、当然といわなければならない。そして、当審証人志村正二郎、原審証人奈村喜一の各供述および大滝清八の検察官に対する供述調書によれば、機関長としては、エンジンを始動させる場合、ギヤがニユートラルに入つているかどうかを確認すべきものであり、通常そのように行なわれているというのであつて、機関長にかかる注意義務を課することは、当該船舶およびその乗組員の安全はもとより、該船舶に近接している他の船舶およびその乗組員の安全を確保する上から考えても当然というべく、これは、機関長の守るべき基本的な注意義務であると考えられる。しかるに、右大滝は、前記のとおり縄の取り除き作業が行なわれているかどうか、またギヤがニユートラルに入つているかどうか確認せず、漫然エンジンを始動させたというのであるから、同人の行動は、極めて軽卒、異常なものといわざるを得ず、これが本件事故の主たる原因となつていることは、原判決も認めるところである。

ところで、船舶の船長としては、通常、機関長のような地位にある職員について、同人がその持場において、その基本的な注意義務を守り、適切な行動に出るであろうことを信頼して行動することは、当然であつて、特段の事由がない限り、同職員がその職責上その知識経験に基づき当然守るであろう基本的注意を怠り、異常な行動に出るかもしれないことまで予想して、事故の発生の防止につとめなければならない業務上の注意義務があるものとは、解し難いのである。

これを本件についてみるに、船長である被告人としては、機関長である大滝清八が、みずから直接縄の取り除き作業を業者に依頼していて、潜水夫の来る時刻を知つており、したがつて、その作業時間も予測していたはずであるから、同人が本件事故当時である同日午後四時四〇分ころ、潜水夫による縄の取り除き作業が行なわれていることを知っているものと考えることは、不合理ではなく、かかる作業の際にはギヤを後退に入れることも従来から行なわれていたのであるから、同人が右の時刻にエンジンを始動させる場合は、とくにギヤの位置をたしかめ、ニユートラルに入つているのを確認したうえでこれをなすであろうことを信頼するのは、当然であつて、本件のように、右作業時間中に帰船した機関長が、帰船の知らせもしないで、ただちに機関室に入つて、縄の取り除き作業中であるかどうかも、またギヤの位置がニユートラルになつているかどうかも確かめず、いきなりエンジンを始動させることのあり得ることまで予想して、人を配して機関室への立入を禁ずるとか、機関長の気付き易いところに貼紙をする等して事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるものとは、認め難いのである。

そうすると、原判決が、被告人に前記のような注意義務があるものとして、これを前提として業務上過失致死の責任を問うたのは、事実の誤認というほかなく、この誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、論旨は、理由があり、被告人に対する原判決は、破棄を免れない。

よつて、刑事訴訟法三九七条、三八二条により原判決中被告人に関する部分を破棄し、同法四〇〇条但書によりさらに判決する。

本件公訴事実は、

「被告人は、漁船第一五喜一丸の船長として船員及び船舶を指揮しているものであるところ、昭和四四年八月二九日午前一〇時ころ釜石港東北約一二〇粁の海上においてまぐろ延縄の操業中右延縄がスクリユーにからんで回転軸に縄が巻きついたため、翌八月三〇日釜石市東前町二〇番地三二号先に入港してこれを繋留し、機関長大滝清八を通じ右回転軸に巻きついた縄の取り除き作業を依頼した潜水夫佐々木賢二(当三七年)が同日午後四時二五分ころ作業を始めるに当り、同人の要請でスクリユーの回転軸を船体の後方に出すため釜道勝典をしてエンジンのクラツチを停止位置から後退位置に入れかえさせて潜水作業を行わせたのであるが、乗組員に対してはあらかじめ出港準備のため各人の持場に集合する時間を同日午後四時と指定していたのであるから、外出していた機関長大滝清八が乗船して右潜水作業中に機関室に入りクラツチのギヤが停止の位置から後退の位置に入れかえられていることに気付かないまま出港準備のためにエンジンを始動するときは直ちにスクリユーが回転を起し潜水夫に危険を与えるので、右潜水作業が終了するまで機関室に連絡員を派遣しておくなどして機関長に対する連絡を確実に行い、もつて事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、自から船尾において右潜水作業を監視したのみで、機関長に対する連絡措置をとらなかつた過失と、偶々集合時間に遅れて乗船した機関長大滝清八が同日午後四時四〇分ころ機関室にかけつけ、右潜水作業は終了しているものと軽信し、かつエンジンのクラツチの状態も点検しないでエンジンをかけた過失との競合により、直ちにスクリユーを回転させ、折柄前記回転軸に巻きついた縄を取り除く作業に従事中の右佐々木に対し左大腿、両側下腿開放性骨折等の傷害を負わせ、その結果同人をして同日午後五時二〇分ころ釜石市大町三丁目八番三号釜石市民病院において失血死させるに至つたものである。」

というのであるが、前示判断のとおり、右被告事件については、犯罪の証明がないから、刑事訴訟法四〇四条、三三六条後段により、無罪の言渡をすることとし、主文のとおり判断する。

(裁判長判事 堀義次 判事 平野太郎 判事 和田啓一)

弁護人戸田等の控訴趣意

第一点

一、原判決には次の点において事実の誤認があり、その誤認は判決に影響を及ぼすこと明らかで破棄を免れない。

即ち原判決は

「船長たる被告人佐藤としては、右機関長大滝その他上陸した乗組員に対して集合時間を同日午後四時である旨告げており、又、クラッチを入れてギヤを後退の状態にしてあつたのであるから、その頃右機関長大滝が帰船して被告人佐藤の目の届かない機関室において潜水作業中であることを気付かず、又クラッチの状態が前記の如くあることに気付かずして出航準備のためエンジンを始動させ右潜水夫に危害を加えることがあることを慮つて人を配して機関室への立入りを禁止するとか、機関長の気付き易い箇所に貼紙して右機関長の不注意なエンジン始動操作を防止すべきであるにもかかわらず、同被告人は、同船には当時あゆみ板(渡り板)が掛つていなかったためかかる危険が発生しないものと軽信して、これら注意を怠つた」

として、本件における被告人の注意義務違反の事実を認定し、右致死事件につき業務上過失致死罪の責任を認めたが右判示につき明らかに事実の誤認がある。

二、まず第一に「人を配して機関室への立入りを禁止するとか、機関長の気付き易い箇所に貼紙」する必要があつたであろうか。弁護人は次の理由から注意義務違反はないものと考える。

1、乗船する可能性がなかつた。

本件事故当時第一五喜一丸は岩壁より約九メートル離れて繋留されており(被告人両名の当公判廷における各供述、被告人の昭和四四年十月二八日付検面調書七項末尾、同九月一日付司法警察員に対する供述調書二一項、被告人大滝清八の昭和四四年十月二八日司法警察員に対する供述調書七項その他)又「あゆみ板」がかかつておらず、かつ、同船の左右には船舶は停舶していなかつたので、機関長はもとより第三者も乗船してくる可能性はなかつたと言うべきである。

2、エンジンをかける可能性がなかつた。

当時エンジンをかける技術を持つた乗組員は機関長と機関員釜道勝典の二人だけで他の乗組員はエンジンをかける技術を持っていなかつた。機関員「釜道」は甲板で被告人と一緒に見張つていたのでエンジンをかける可能性のある者としては機関長だけであつた。

ところが当時機関長は仮に船に帰つて来ても「あゆみ板」がかかつていなかつた為、乗船できず従つて機関室へ入ることはおろかエンジンをかける可能性はなかつた。

3、仮に第三者が何等かの方法で乗船しても第三者がエンジンをかける可能性がなかつた。第三者即ち機関について知識のない者が仮にエンジンを始動させようとも始動できないことは各証人の供述から明白であり、バルブの開放、空気ベンの操作等八つの過程を要する作業は第三者には全く不可能であると言うべきである。

4、本件には信頼の原則が適用されるべきものと考える。

機関長が酒によつてニユートラになつているかどうかを確認せず、不注意にもエンジンをかけるなどということはとうてい予想し得ないところであり、日頃より機関長を信頼しその仕事に期待して行動して来た被告人であつて、信頼の原則が適用されるべきである。

5、予見可能性がなかつた。右の通りの第一五喜一丸の位置関係から誰かが乗船してくる事は考えられず、潜水夫が作業を始めた時左右に船はいなかつたのであるから、たまたま「いかつり舟」が被告人の視界と反対側に入つて来て機関長がそれに飛び乗り乗船し、しかも突然エンジンをかけるなどとは、とうてい予見し得なかつたことであり予見可能性はなかつたと言うべきである。

6、弁護人は以上の理由により被告人には注意義務違反はないものと確信する。

三、第二に仮に船長に船舶の障害なき運行を遂行する注意義務があるとしても、右の状況下においては、被告人は甲板で潜水作業を監視する等、その注意義務を果たしていたと言うべきであり(公判調書四八頁その他)、本件の場合それ以上の注意義務を求めることについては期待可能性がなかつたというべきである。

四、海難審判では被告人は無罪となつている。横浜海難審判庁において昭和四六年横審第三二号事件として審理中のところ昭和四六年六月二九日「受審人佐藤六夫の所為は本件発生の原因とならない」と裁決されているところである。海難審判は海難に関し極めて専門的技術的分野より具体的に審判されるものであつて、本件の場合船長の処置を具体的に審理された結果「本件発生の原因とならない」と結論されたものであつて右審判は被告人の無罪を立証するものであり、当然当法廷においても尊重されるべきである。

五、疑わしきは罰せず。結局本件は証明不十分であつて疑わしきは被告人の利益に帰せられるべきである。

六、以上の理由により被告人には原判決判示の如き注意義務がなく、これを認定した原判決には事実誤認がある。

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